昭和43年9月2日 朝の御理解 第93節


X御理解第98節 心は神信心の定規じゃによってお伺いをする時には、とりわけ、平気でなければ、ならぬ。落ち着いて静かに願え。


 お伺いするときにはとりわけ、平気でなければ、ならぬというとりわけ平気。どういうときにお互いの心が平気でなれるであろうか。平気と言うのは、平静心のところである。どう言うような状態の時に落ち着いておれるであろうか。どう言うような状態の時に静かに静かに願えるであろうか。ですから、今日は心は神信心の定規じゃによってと心が神信心の定規と言うことが分かれば、お伺いする時にも平気で落ち着いてしかも静かに願うことが出来ると言うこと。心は神信心の定規とは、どういう心をもって定規とするのか。いくら言うてもどうしてわからんのか、歯ぎしりするような思いで実際にそう思う。どうして分からんのかじゃあない。分からんのはこちらであったと気づかせて頂く。分からんのは信者が分からんのじゃあない。自分が分からんのである、と気づかせて頂く。言うことをきかん。自分の思うようにならない。私、昨日月並祭の後にお話しさせて頂きながら、それを真実、実感した。信者が分からんのじゃあない。分からんのは私だと、昨夜お祭りの後に家族のものと色々話しをしている間に長男の勝彦の姿の中から、豊美の言うておる事の中から、家内が黙って話しを聞いておる。その姿の中から、私は自分の姿を見る気がした。人間の一番つまらない姿とでも言おうかね。例えば、偉くもないのに偉そうにしておる。偉くもないのに偉そうにしておるぐらいおかしいことはない。そういうような姿を私は長男の姿からの中から見た。子供がえらそうしておるのでもなからなければわがまましておるのでもない。どうにも、出来ないのはこちらにあった。分かったからと言うてこちらが、静かになろうとでも平気になる訳でもないけれども、いくら言うて聞かせても分からんのは御信者の皆さんでもなかった。偉そうな姿をしているのは、子供じゃあなかった。家内でもなかった。それを発見して時にこれからの信心のいよいよ難しさを感じた。そうなってきたら、お伺いすることも平気で願うことも落ち着いて静かに願えと言うことも出来なくなってしまった。私が4時から、夕方5時ちょっと前まで一人で御祈念しておる如何にも静かに静かに願っておる様である。御祈念しているようにある。それが私のこことが波打っておるのでもなからなければ不安とか焦燥と言ったようなものがあるわけでもない。けれどもね、今私が言おうとしておる。とりわけ、平気な心とか静かな心というのは、もう一つ向こうにあるしずかな心を認めておる。お伺いすると言う事でも皆さんが右にしたら、よかろうか、左にしたら、よかろうかというお伺いなさる様なことなら、これは何時でもここでも出来るどこでも出来る。御結界におらなくても出来る。そう意味でのお伺いではない。今日私が昨夜から昨日にかけてわからして頂いたことはさまざまな自分の思うようにならんとか、目に余るとかいったようなことやら、人がですね。人ではなくて、自分の心の中にあったとわからしてもろうて、それを自分の心の中に一つ一つ問いつめて行くと言うか、一つ一つ改まって行くと言うか、分かっておるのだから、分かっておるようにして行きゃあいいんだけれども、その難しさを思うただけで落ち着かない。お伺いする気になれない。とても静かに願やあしない。それはここんところが一つの成就になったとき、初めて私は本当のいわゆる狂いの無い定規として自分の心をそれをお知らせすることが出来るだろうと言うんで今思うておる。唯、人ではなかった。信者ではなかったと子供ではなかった。家内ではなかったと私の心の中にそれを発見した。発見したから、それにたとえば、昨夜から、早速それに取り組ませて頂いた。そして、それは分からない。それが出来たとき、それが出来る時に私は自身の心に捕えておる御理解と言うてもよいぐらいです。そこで、私は家族の者に昨日頼んだ。私はかつて自分の信心と言うものを一つの流儀というものを持っておるから、人に頼まず、家族の者に頼まず、頼らず、唯頼るのは神様だけ。これが私の流儀であったことは皆さんもご承知だとこう思う。どのように御造営なら、御造営と言ったような大事業がここで起こされても総代さんがお願いしますよと私は願うようなことはしなかった。私は総代でん、信者でん頼むようなことではおかげにならんことも自分では知っておる。唯頼むのは神様お一人、神様以外にはない。家族のもんどん頼ったぐらいのことでおかげを頂けるはずが無いこともわかっておる。ところがです。昨夜はね、私はそれを頼まなければ、おられん程にあった。なぜかと申しますのにあまりにも私の信心の定規と言うものが、正確でないから、正確でない、そこんところをです。何とか、家族のもので話し合って何とか補えて来れるなら、補のうてもらいたいと言う願いをした。だから、今日の御理解は皆さんへの願いになるかも知れない。私の信心の定規は、平静じゃあない。静かじゃあない。そこで、たとえば、私の信心の定規の狂うておるところは、間違ごうておるところは、皆さんの信心でカバ-してもらいたい。まあ、当分という。さあ、それが当分と言う私は出来るか出来ないか。それは実を言うたら、分からない。心は神信心の定規とこういわれる。私の神信心私の神、信心、私の信心をおしはかるものはそれは私の心だ。その心が不平定である。短かったり、長かったり、狂うておる。これでは、計れない。計れなかったら、平静心も静かな心も落ち着いて頼めとおっしゃることも出来ない。これはせまらら自分の信心お貧しさと言うものを思うてそれこそ思い思うて退の引きならないところに到って、家族の者に頼んだ。もう本当に今までの私の信心のいうなら、あんたには頼まん。わたしゃ、神様に頼む、といわば、いうてきた。言うなら、私の信心の誇りと言うものをそこに投げ捨ててしもうて、私の信心のほこりというものをそこに投げ捨ててしもうて、私はいよいよ家族の者に頼んだ。頼みを開いて来れるか。聞いてくれないか分からない。不平定なしばらくは続くだろう。私の心の思いをおいてきた。そこでどうぞ皆さんも昨日子供たちから、お父さん御理解を止めなさったらどうですか、と言うような話しも出た。御理解をいくら言うてもいくら言うてもわからんのなら、いわなさらん方がよいとじゃあないですか。それは、信者さんからもそう家族に対してもそうかも。長男が私に言うた。お父さん、あなたがあまり精進しなさるから、私たちが信者が出けんと、私はそれを聞いていよいよ自分の信心の精進を本当に言うならば、ばかにされた感じがした。これは、本気で精進させないといけないなあと自分で思うた。そう意味で、御理解を止めなさいと御理解を説きなさいますなとお父さんから、例えば、御理解をお話しをすることを取り上げたらもうお父さんの命がなくなるぐらいだ。それを平気で取り上げることを言うた。私の信心もここで飛躍を遂げるか、遂げないか、本当に信心の定規と言うものを自分の信心の押し当てると言う心というものを。どうしても一つ頂きたい。それでいても不安である。果たしてこれに取り組み取り組んでも出来るんであろうか。そこに私の平静をかいでおる。不安定である状態のところをです。これは家族の者が補って下さる。皆さんもそこんところをですね。補のうてもらう信心をしてもらわねばならん。皆さんもそこんところをですね。補のうてもらう信心をしてもらわねばならん。皆さんが今までの頂いておられるおかげを持続しておでられるためにも又、よりよいおかげになっていくためにも私は皆さんがどうぞおかげを頂けるために、それこそたこをたたいてああだこうだとお話ししておるつもりである。本当に人間は徳を受けなければ人間の幸せはありえないと信じておったから、こげなしんじんじゃあお徳は受けられんと言うて来た。いくら言うても言うてそれがわからんものをどうもしようがないじゃあないかとたち到った時にです。そのわからんのは、私であったと気づいた。言うならば、ここにゃあ、信心の定規が正確になってくるであろう。第一歩を私の心の中に感じ取ることが出来た。けれど、これはまだ難しい。それこそ、日は暮れて、道遠しである。大変なこれはむずかしい事だと自分でもそう思っております。けれども、それが難しいことだと自分でもそう思っております。けれども、それが難しい、というて、それを投げやりにするわけにいかんのが信心です。やはり、それに取り組んで実意丁寧にそこんところそれこそ、一分づつでも一厘づつでも、自分のものにしていかなければ、出けない。そして、どの様な場合でも自分の心を自分の信心で信心に押しあてて間違いなく神様のおかげをお取り次ぎさせて頂けれるお取り次ぎ者として言うなら、完璧を目指して私は信心をさせてもらう様な腹が出けたというところ、実際はそういう腹を作らならんと思うところだけなんである。実際出けたといえない自分でもというほどに不安定、今までの信心の方法もそういう意味でおかげにならんといけません。まあ、これをなりやすいところで申し上げるなら、自分思う様にならないということを聞かないと言うことを聞かない心は自分にあったんだと、分かるためにそこから、だいたい今まで私が言うて来た。安心は頂ける、人じゃあなかったんですから。分からんのは、じぶんだったんですから、自分が分かっていきゃあ、いいですから。私が修業さえすりゃあ、おかげになると確信も持てるでしょう。けれども、今日の私はですね。そこが分かった。分かったけれども、なら分かる私に分からんのは信者じゃあない私だ。分かる私に何時までにか、そのことすら、本当に分からんのだ。私には、ですから、私は不安定だと。ですから、今日の御理解を頂いて下さるならば、そういう手前のところで頂いて下さるなら、皆さんが分れるだとうとこう思う。昨日、信心でもそこんところをもう一つつき進んでおいでになれると、極めることは極めた。これだけは、ところが、その極めたものが、あまりにも私にとって難しいところであるから、さあ、出来るだろうかと自分でも思うておる。と言うてなら、おかげを受けなければ、いけんから、そこんところ今までの言うなら、私の信心の誇りを投げ打って家族の者にも頼み、言うなら、皆さんにもお願いする訳である。まあ、言うならば、私は遠いところへ、旅立ちます。だから、留守中はそれは出来るか出来んか分からんけれども留守中はあんた達でまあ、ほどほどやっておってくれよと教祖の神様が天地の神様から、ご依頼を受けられる。長年の言わば、百姓をおとめになる。御自分だけが家族の者に頼まれた。まだ、年はも行かん御長男さん十何歳位にまだ牛を使われたこともないお子さんに百姓をしょってくれよと言う。家族ものになさっておられる。そうしなければ、家が、立ち行かんのである。百姓をなさらなけらばね。それが、生計の元になる。百姓をお止めになるのである。生計がどげんなるかわからん。自分では、今はこんなに発展し開けて来た。天地の親神様からお頼み受けられた時にはそれは、分からないものであった。いわゆる先が真暗であった。だから、家族のものに百姓だけはほどほど焼けよってくれよとこういうことである。私は神様から頼まれたわけでもないんだけれども、これからは自分の心の中にはっきり信心の定規を頂かして頂く。しかもそれは大変至難なこと、難しいこと。自分でも出来るか出来ないか分からないぐらい思おうておることに取り組む。そのかんは御信者さんの皆さんどうぞよろしゅうお願いします。家族の皆、そこんところ、ほどほど今まで通りの様なふうにやっていきながら、まあおかげだけは、立ち行くだけは立ち行くようなおかげを頂いていってくれよ。私はもうそれとは無関係なところへ旅経たしてもらう。皆さんが知らない世界に私は足を一歩踏み入れさしてもらう。それもどういうことになるのやら、どこへ行くのやら、それもわからない。なんちゅうたら、悲しいことである。今日それがここではだめだと分かった時にそこを私は言わば、旅立つという決心をしいられておるという感じ。今までの私なら、本当にそういうふうに相手の姿から、自分を見たときにですね。そうじゃあなかった自分じゃったと、意味が分かったら、そこにね、安心が生まれたり、平静心が頂けたりしたんだけれど、あまりにもむずかしいことであるから、なかなか出来ない。まあ、今日大変難しい事を申しましたがです。どうぞ、一つ程ほどと百姓をしよってくれと言うのは家族の者だけではない。せめて、こうやって朝の御祈念にお参りされるみなさんだけなりともそのことを聞いてもろうてそのところをです。程ほど信心を続けようてくれと言うても皆さんに約束するわけにもいかん。いうなら、私は必ず、おかげを受けて見せると断言するだけの、言うなら、勇み立った心というかね。そういう自身も実はないのである。これが、どういうふうにこれから、変わって行くか、まあ、皆さんの家族のもんのおなさけで信者さんのお情けでカバーしてもらって行くから、立ち行くだけは立ち行くだろう今まで通りのことぐらいだったら、けれども、これではこれではいけないんだと私はそういうふうに今日の私の信心を見ております。恥ずかしい限りである。分からん。自分でも出来るか出けんか、分からん。それは、大きな例えば、岩に向かってそれを押しておる様なことになるかも分からんね。もうそれこそ、ビッグとも動かんかも知れん。それでも、やっぱり、押さなければ、ならん時期がきておる。まあ、押しておる中に何がしかの力は出来るかも分からん。一生懸命力を力んでも取り組むのであるから、どう言うような者が今夜あたり生まれるか。いや、それが何年先になるのか。それすら、分からない。ひょっとすると、昼頃それが分かるかも知れない。どうぞ、お祈り添えをお願いいたします。どうぞ。